2016年01月01日

2015年12月19日

南仏の暴風 アルビジョワ十字軍(6) - 異端審問

政治的な戦争は終わったが、むしろ宗教的な戦争はこれからだった。既に信念を持ったアルビ派の信者の多くは山中の要塞に移っており、それらが1244年までに順に攻撃され、陥落・降伏した要塞の信者たちは自ら身を投げるか、回心を拒んで火刑となった。

信者の一部は隠れ信者として都市に残っており、民衆の中に潜んでいるアルビ派をあぶり出し、かっての信者やシンパで今は回心したと称する者が本心からなのかを確認するために、異端審問が1229年からトゥールズで始められ*51、1233年からドミニコ会*52に委ねられ激しさを増し凄惨を極めた*53。

拷問を用いることが許されている審問自体が大きな恐怖であった。積極的に異端への迫害を行った人間以外はカトリックでも審問の対象になる可能性があり*54、まともな生活に戻れると期待していた人々は戦々恐々となった。その激しさは大きな抵抗を受け、1235年にはナルボンヌ、カルカソンヌ、トゥールズ、アルビなど多くの暴動が起こり、異端審問者が殺害された。

*51 異端審問自体は以前から地域ごとに行われてきたが、これ以降、教皇庁が主導する異端審問が活発になった。
*52 その行動から、ラテン語の名称をもじって主の犬(ドミニ・カンヌ)と称された。
*53 清貧を信条とする托鉢修道会に参加する人は真面目な人だと思うが、生真面目な人々がこの方向に走ると非常に恐ろしいことになる。
*54 多くの市民はアルビ派のシンパか同情的だったため、審問の対象と成り得た。

南仏の開放的な文化が抑圧されたのは、戦争自体より、その後の異端審問の影響が大きい。中世の陰鬱なカトリックのイメージもまた異端審問から発する部分が多く、それまでは、教会はモラルの担い手*55で人々の保護と弱者の救済を心掛けており、横暴な君主・領主、乱暴な騎士に対する民衆の味方と言ってよかった。

*55 教会自体のモラルはあまり高くなく、アルビ派やワルド派などの異端が支持される理由だが、一般信者に対しては常にモラルを呼び掛けている。

教会が色々な悪徳を非難しても力はなく、ローマ教皇は婚姻の承認・無効、聖務停止・破門などの手段を活用しながら、王侯貴族間の微妙なパワーバランスを操り影響力を維持してきたのだが、アルビジョワ十字軍により意に逆らう王侯に武力を差し向け、異端審問により王侯貴族でも異端として裁ける力を手にしてしまったのである*56。

*56 教皇直属の異端審問官は、地元の司教も領主も逆らい難い強い権限を持っていた。

中世というのは、一般の認識とは違い、意外と慣習・法(コモン・ロー)と一般人の常識(コモン・センス)が通用する時代で*57、犯罪の容疑を受けても同僚の合意が無ければ*58、権力者が一方的に重罪にすることはできないのである。というのは、それぞれのレベルで人々は共同防衛体制を作っているからで、貴族は共同で君主に対抗し、都市市民はコミューンやギルドで守られ、農奴ですら、領主を怒らせなければ、財産として領主により守られているからだ。

*57 権力が分散しているため、一つの権力が無茶しにくい。
*58 後に陪審員制度として確立される慣習である。

ところが異端審問は、人の心の中の信仰という目に見えない物を理由*59に、それらの共同防衛を超越して罪に問うことができるのである。血縁、地縁、コミューン、ギルドなどの共同体で守られている人々を、密告の奨励や拷問により、告白と他者の告発に追い込んだため、「魔女と異端」で述べたような告発の連鎖が起こり、人々を疑心暗鬼に陥れたのだ*60。

*59 目に見えないため誰であれ容疑をかけることができ、拷問が許されていたため審問への呼び出し自体が脅迫的効果を持っていた。
*60 尤も、中世の人間もおとなしくはなく、所々で異端審問官への闇討ちや民衆による襲撃が行われたため、まもなく異端審問官もあまり無茶はしなくなった。

こうして力を手に入れた教皇は、神聖ローマ皇帝フリードリヒ2世と全面的に対決し、ホーエンシュタウフェン家を滅亡に追いやったのだが、その代償も大きく、フランスの勢力が拡大する一方、アラゴンは反教皇となり、ドイツでも教皇への警戒と反発が広がり、一層、フランス・ナポリに頼ることになった教皇権は、フランス王フィリップ4世によりアナーニ事件で大きな打撃を受けるのである。
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2015年12月13日

南仏の暴風 アルビジョワ十字軍(5) - 鴫と蛤の争い

1216年4月にレーモン6世とその世子レーモン7世がマルセイユに戻ると、多くの都市はその旗の下に集結した。

プロヴァンスのボーケールをモンフォールが占領していたが、これを5月にレーモン7世が陥落させたのが再び転機となった*39。1216年7月にはイノケンティウス3世が死去し、比較的、穏健なホノリウス3世に代わったことも幸いした。

*39 プロヴァンスはモンフォールに与えられた地域ではないため、レーモン7世の方に名分がある。

モンフォールが各所の鎮圧に追われている隙を突いて、アラゴンの支援を受けたレーモン7世が1217年9月にトゥールズを奪回し、1218年の春からモンフォールがトゥールズの包囲を始めたが、その最中に城側から発射された石が頭にあたり死亡した。投石器を操作していたのは女性だったと伝えられている*40。

*40 このように都市の防衛には女性が大きな役割を果たしていた。

モンフォールの死は大きかった。既に十字軍は名前だけでモンフォールが自領を守るために十字軍の名で傭兵を集めて戦っていたようなものであり、そのリーダーシップに代わる人間はおらず、跡を継いだ息子のアモーリ・ド・モンフォールには十字軍を纏める力はなかった。

フィリップ2世はここで王太子ルイ(8世)を派遣したが、すぐに呼び戻してしまい*41、1219年6月のトゥールズ包囲が失敗すると、流れはレーモン7世側に傾き、1220年、21年とアモーリ・ド・モンフォールの敗北は続き、多くの領土が回復し、アルビ派が再び表面で活動するようになり、カトリックの司教は逃げ出した*42。1222年にレーモン6世は亡くなったが、レーモン7世が名実ともに当主でリーダーとなり影響はなかった。

*41 教皇の要請に形だけ従ってみせたが、南仏側に勢いがあるのを見て、両者が力尽きるのを待ったのだろう。
*42 本来の地元の司教はアルビ派と共存しており、それらが解任されて強硬派の司教が任命されていた。彼らが逃げ出し、元の司教・神父が復活している。

1224年1月に遂にアモーリ・ド・モンフォールはカルカソンヌを放棄して北部に逃げ戻り、占領地の権利をフランス王*43に譲渡した。トランカヴェルがカルカソンヌに復帰して、南仏は概ね十字軍以前の状態に戻り、奇しくも同年に教皇特使だったアーノルト・アモーリが死去している。

*43 1223年にフィリップ2世は死去し、ルイ8世が即位している。

しかし、フランス王からすれば機は熟していた。南仏の権利を譲り受けて大義名分はあり、これ以上の争いを嫌う都市や領主たちはフランス王を受け入れると思われた*44。

*44 フランス王は法に従って公正に行動すると期待された。また、この期に及んではローマ教会もフランス王に頼らざるを得なかった。

1225年のブルージュ教会議でレーモン7世は破門され、新たな十字軍のための1/10税が決められ、1226年6月からルイ8世が自ら十字軍を率いた。戦いに疲れた都市はフランス王を歓迎し、多くの領主は帰順したが、トゥールズ伯とフォワ伯の帰順は認められず、やむなく抵抗を続けたが、カルカソンヌも降伏し、トランカヴェルはフォワ伯の元に逃げている。目立った戦いは神聖ローマ帝国内のアヴィニョンが包囲に対し3か月の抵抗を示しただけである。ルイ8世の戦闘はそれだけで、まもなく病気に罹りオーベルニュで死去している。

残されたルイ9世(聖王)は若干12歳だったが、母ブランシュは摂政として十字軍を継続させた*45。フォワ伯は自領の防衛で手一杯で、トゥールズ伯は独力で戦わねばならず、幼年の王に対するフランス貴族の反乱やイングランド王ヘンリー3世の画策*46もあったが成功せず、1228年からトゥールズの包囲が始まり周辺の地域は荒らされた。1229年1月に孤立無援のレーモン7世は王妃ブランシュの提案を受け入れ、一人娘のジャンヌをルイ9世の弟アルフォンスと結婚させ、共同の跡継ぎとする条件で屈服し*47、フォワ伯は帰順を求めて6月に認められ*48、アルビジョワ戦争は概ね終結し*49、南仏はフランス王の支配下に入った*50。「鴫と蛤の争いは漁夫が利を得る」を地で行ったと言えよう。

*45 結局、フランスの南仏征服が成功したのは、幼年の王を支えて貴族の反乱を抑え、十字軍を継続させた摂政フランシュの力と言える。
*46 この機に、ヘンリー3世も大陸領土の回復を計ったが成功しなかった。
*47 一見、寛容な条件に見えるが、新たに男子が生まれても跡継ぎにできず、ジャンヌに子ができなければ王領に編入されるという一方的な条件だった。しかも条約締結後、しばらく牢に入れられている。ジャンヌには子ができず、1271年に亡くなった際には領地の一部を親族に譲ることさえも許されなかった。
*48 いくらかの所領を没収されたものの、生き残ったことで、この地域の有力貴族として繁栄していくことになる。
*49 アルビ派が籠る山中の要塞はいくつか残っており、1244年に最後の主要な要塞が陥落するまで続いた。なお、1255年に攻撃された人里離れた山奥に残された小さなアルビ派の拠点が本当の最後だった。
*50 イングランドやアラゴンとの争いは残っていたが1243年の条約で確定し、トゥールズ伯領は1271年のジャンヌの死後に王領に編入された。
posted by zorac at 10:05| Comment(0) | 西洋史